マン・オブ・スティール/ファンタジーを手放したスーパーマン

個人的に記憶にあるのは
クリストファー・リーブが演じていた
スーパーマンシリーズだ。

彼の演じるスーパーマンは、
浮世離れしていて、
いわゆる白馬の王子様タイプで、
どこかしら、おとぎ話の登場人物のようだった。

クリプトン星のテクノロジーも
クリスタルと白を基調にした、
これも、やはり、おとぎ話の世界のようだった。

敵役のレックス・ルーサーもどこか憎めない
人間臭さと、その部下の微妙なマヌケぶりに、
寓話のような笑いがあった。

しかし、今回の映画
「マン・オブ・スティール」は
良くも悪くも別物になっていた。

クリプトン星と
クリプトン星人は、
独自のテクノロジーを発達させ、
居住可能な惑星を植民地化する、
生き物としての異星人で、
おとぎの世界の住人ではなくなった。

フィクションとして実在する、
生物になった。
(言いようとしては矛盾をはらんでいる)

敵役に人間臭さはなくなり、
敵側の正義が生まれた。
そこにファンタジーはない。
そして笑いもない。

地球人として苦悩するクラークケントと
クリプトン星人の義を通そうとする、
生き残った者たちとのぶつかり合い。

観ていて、原作の方の風の谷のナウシカ
彷彿とさせる場面もあった。
中盤から後半にかけての戦闘シーンは、
本当に戦闘シーンであり、
特に、クリプトン星人同士の戦いは、
MATRIXの3作目のラストの戦闘を思い起こさせる。
(=ドラゴンボールの戦闘シーン)
ここに、地球人の介在する余地はない。

人間では無理でも、スーパーマンなら、
余裕で手助けしてもらえる的なシーンは
ほぼ無い。
それらしいシーンもあったが、
スーパーマンは自分のことで手一杯で、
助けには来ない。

それでも、これはスーパーマンの映画だ。
未知のものに対する態度、
正義のあり方、
力を持てる者の振る舞いとは、
正義を貫く時、得るもの失うものとは。
そして、正義とは。

まぎれもなく2013年のスーパーマンの映画だ。