マン・オブ・スティール/ファンタジーを手放したスーパーマン

個人的に記憶にあるのは
クリストファー・リーブが演じていた
スーパーマンシリーズだ。

彼の演じるスーパーマンは、
浮世離れしていて、
いわゆる白馬の王子様タイプで、
どこかしら、おとぎ話の登場人物のようだった。

クリプトン星のテクノロジーも
クリスタルと白を基調にした、
これも、やはり、おとぎ話の世界のようだった。

敵役のレックス・ルーサーもどこか憎めない
人間臭さと、その部下の微妙なマヌケぶりに、
寓話のような笑いがあった。

しかし、今回の映画
「マン・オブ・スティール」は
良くも悪くも別物になっていた。

クリプトン星と
クリプトン星人は、
独自のテクノロジーを発達させ、
居住可能な惑星を植民地化する、
生き物としての異星人で、
おとぎの世界の住人ではなくなった。

フィクションとして実在する、
生物になった。
(言いようとしては矛盾をはらんでいる)

敵役に人間臭さはなくなり、
敵側の正義が生まれた。
そこにファンタジーはない。
そして笑いもない。

地球人として苦悩するクラークケントと
クリプトン星人の義を通そうとする、
生き残った者たちとのぶつかり合い。

観ていて、原作の方の風の谷のナウシカ
彷彿とさせる場面もあった。
中盤から後半にかけての戦闘シーンは、
本当に戦闘シーンであり、
特に、クリプトン星人同士の戦いは、
MATRIXの3作目のラストの戦闘を思い起こさせる。
(=ドラゴンボールの戦闘シーン)
ここに、地球人の介在する余地はない。

人間では無理でも、スーパーマンなら、
余裕で手助けしてもらえる的なシーンは
ほぼ無い。
それらしいシーンもあったが、
スーパーマンは自分のことで手一杯で、
助けには来ない。

それでも、これはスーパーマンの映画だ。
未知のものに対する態度、
正義のあり方、
力を持てる者の振る舞いとは、
正義を貫く時、得るもの失うものとは。
そして、正義とは。

まぎれもなく2013年のスーパーマンの映画だ。

ゴジラ(昭和29年公開のリバイバル上映)

60年前のゴジラ
おおよそのストーリーは知ってたが、
大きなスクリーンで観たことがなかった。

昭和29年公開って、
今のうちの職場が現在の場所(神戸市須磨区)になった年だ。
焼け野原になって9年後に公開された映画。

ゴジラの破壊する東京が、
すでにネオンであふれていた。
破壊するだけの対象が
焼け野原からわずか9年で
構築されていたことになる。

そして、
自分が子供の頃に親しんだ
特撮の原点を観たわけだ。

人物ドラマには古さが否めなかったが、
特撮は、時折、実写なのか特撮なのか
わからない場面が幾つもあった。
とても60年前の映画には見えない。
主演の宝田明さんは、
あまちゃん種市先輩をやった
福士蒼汰さんそっくりで、
二枚目俳優って今も昔も変わらんのかも。

ゴジラの正体が徐々に明らかになっていく演出
全く古さを感じず、
むしろ、モンスター系の映画は
お手本にしたんじゃないかと思えるほど
どこかで観たことある感じがした。

劇中で使われている音楽は、
今でも色んな所に使われてる。
60年経った今でも、
色んな所で生きているんだな。

図書館戦争 THE LAST MISSION

この映画を観る前は、

設定にさすがに無理があるんじゃないか

と少し思いながら観始める。


しかし、すぐにその思いは杞憂に終わる。


今回も扱うテーマが重い。

表現の自由を守りながらも

その意義に疑問と限界を感じた者

それでもなお、

この矛盾に満ちた世界の中で

立ち止まることなく行動することを選んだ者

世界を良くしたいと思いながらも、

選ぶ手段が様々なことが

リアルに迫って来る。


正義と悪ではなく、

多くの正義がある。


そんな中で、専守防衛を愚直に貫く

図書隊の姿は清清しく映る。


終映後、拍手をする方がいたが

思わず拍手したくなる作品だった。

子供のころから映画が大好きだった

いつ頃から好きになったのか定かではないが、
物心ついた時から映画は好きだった。

もう鬼籍に入っている母方の祖父が
映画を見に連れて行ってくれたのを覚えている。

そんな好きが高じてか、
小学校、中学校、高校と
お年玉はほぼ映画に使っていた。

今の場所に住むようになって、
見る環境がますます良くなり、
見に行くのに拍車がかかっている。

そんな人間の、映画放談です。